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曇天、曇り空。書いては消して書いては消す、一向に進まない創作物。

日曜日が過ぎれば、またいつもの月曜日に戻り、自分を一死に誤魔化すために自分の存在している全ての時間をお金に変えようと躍起になる。

そんな平日が訪れる。

なんのために生きているんだろう。なんのために親は躍起になって自分を慶應なんかに入れたのだろう。なんのために自分はイギリスのめちゃくちゃいい大学に行ったんだろう。なんのために自分は大学を卒業後に日本に、ここに帰ってきちゃったんだろう。

数々の巡り巡って襲ってくる「なんのために」という質問に、頭を悩ませていた。

自分の考えとか、経験とかを共有することにものすごく怖さがつきまとってなかなかこの無地のA4の紙に自分の考えを吐き出すことができない。

(この恐怖心について、最近いろいろと考えている。この恐怖心を飼い慣らすことはどうしたらできるんだろう。なんでそもそも恐怖心を覚えるんだろう。TwitterでフォローしているDaiki Utsugiさんがめっちゃ納得したことを書いていたからここに共有しよう。https://utsugidaiki.notion.site/8b950085824a42a8970d1a56112551b8

この自分が知らない自分がどんどん、自分に関わった人の数だけ出てきてしまうっていうのが本当にそうだと思うし、自分の考えを吐き出したところを見られるのは、自分の裸をまじまじと見られることに繋がるのはものすごく共感したけど、それだけじゃなにかもっとこう自分が大好きな書き出すこと、とか表現すること、を妨げるくらいの大きな負のエネルギーにはならないんじゃないかって思う。果たして自分の持っている恐怖心ってなんなんだろう。

吐き出すことができない時は、必ず手元にあるささやかな、自作の僕の友人たちからいただいた言葉集を見返して、勇気をもらってまた、吐き出し作業に戻る。

今回は、自分の経験から感じたフェミニズムというものについて描こうと思う。

Twitterアカウントの統合問題

Twitterアカウントで表象する自分を分離しようか、分離しないかここら辺でものすごく迷っている。

いっつも思うのだけれども、自分の高校生の時から保持していたメインのTwitterアカウントで自分の専攻分野ーすなわちアートだとか、フェミニズムだとか、教育社会学だとか、クィアに関連する分野だとかーにまつわる書き物やツイートをしないように心がけてきた。

自分が高校時代にそこまで興味を持っていなかった分野でもあるし、自分がその分野を学んで首っ丈になっていることを本垢で大っぴらに開示したら高校時代に繋がれていた人たちとの絆を忘れてしまいそうで、なんだか怖かった。

高校時代の自分を永久に保存してくれている場所ーそんなイメージをずっとずっと、自分のTwitterの本垢に対して思っていた。

逆にそんなこと関係なしに自分を表現できる場所が自分にとってのInstagramだった。

大学在学中にバレーボールを続けながらアカデミアを楽しんでた時に、カメラマンの友達と知り合い、ノリで被写体を始めていたら、被写体になることに興味が湧いた。

これまたノリでローマとロンドンの空港でモデルに興味がないか、と声をかけられたこともあるし、なんかポートフォリオでも持っとくか、と思って作ったインスタアカウントを解説し、そこで本垢と被写体アカウントを区別できていた。

でも、被写体になっている自分も自分だし、本垢でいろいろ考えて何か投稿しかり、タイムラインに載せていることも自分から生まれ出てきたことだし、果たしてああいうふうにセパレートにアカウントを持つことの意義をいろいろぼんやりと考える。

そこで、今回は悩みに悩みつめた挙句、この投稿というか、自分の散文集をTwitterの本垢で開示することにした。

多分多くの友達が見るだろうし、最悪家族とかにまで波紋が広がるかもしれない。

でも、周りの友達の名言集の一つ、「これが自分であり、それが嫌いならどうぞ立ち去ってくださっても構いませんわ」っていう心意気で吐き出すことにしよう。

Pt. 1:こじらせフェミニスト

自分はフェミニストだ。この段階でもう自分とは違う、と感じた人はどうぞご自由に退場してください、としか言いようがない。ただ、理由もその後ろにあるロジックも見ようとしないで退出する人たちはご自由にどうぞ。

もしくは、何名かは、いやいや、フェミニズムはやばい運動ってことを知った上で退出するんだ、だから理由もロジックもお前が話すことすら話す前から聞く価値がないともう「知っている」んだと、そういう動機から退出する人たちもいるだろう。

そんな君たち、すなわちフェイクニュースや薄っぺらい論争番組、そしてネズミ講の教祖などがもてはやされる時代が生み出した恐ろしい現代っ子たち相手にもわかってもらえると思っていないから別に退出してもらっても構わない。

では、始めよう。

これを書いた理由は、教授に進路相談をした際に当たって、

教授から励ましの言葉がきたり、実際にめちゃくちゃ仲がいい地元の友達や高校、そして大学で出会った友達から「とにかく書いてみたら?」とおすすめされたから。

教授からは、

I definitely think you can develop an interesting research project about the impact of academic knowledge on society, especially in light of the fake news phenomenon and resurface of nationalist/ conservative regimes around the world which often try to discredit the value of academic knowledge and intellectual debate. 

このような励ましがきた。

日本に帰国して早3ヶ月。

確かに、彼女の指摘するようなフェイクニュース現象が圧巻している日本で何度も何度も、もどかしい経験をした。

一番最初にフェイクニュースの広がりにがっかりしたのは、後輩二人と母校の部活のコーチに行った帰りに話し合った時だ。

バレー部で伝統的に続く文化祭の出し物、「オカマバー」が今年から、SDGsの広がりを受けて、「LGBTQバー」に改名するという。

この報告が生徒たちのLINEグループから上がってきた。

それを受けて、俺たちのころからじゃ考えられないなぁ、

生きにくい世の中になったなぁ、

あとは、LGBTQバーだと俺たちがそっちじゃんって誤解されるじゃん、

だって現に違うんだもん

などというコメントが出てきた。

通常のよくTwitter上のフェミニストとか、

YouTuberの「つくし」さんにいじられるフェミニストの特徴としては、

現に違うって何?LGBTとストレートってカテゴリーに分けて考えなくていいんだよ、

なんていう反論をして、LGBTQ+バーに名前を変えた学校側の対応を誉め立てるであろう。

だた、私はそこにこそ疑問を投げかけたい。

そして、LGBTQ+バーに改名したことに疑問を投げかけられない私の友達たちに悲観的になってしまう。

でもそれを表明すると、彼らは僕のことをやばいフェミニストよりの人間だ、と思って接したり、嫌悪感を示したりするんじゃないか、と考えてしまって自分の考えをUnconditionallyに表現することができずに終わってしまう自分にも悲観的になってしまう。

様々なフェイクニュースや、薄っぺらいフェミニズムに関する論争番組などからフェミニズムはヤバイ運動であり、女尊男卑に基づいており、LGBTQ+の人々を無条件に応援し、ストレート、いままで問題なく「普通」とされてきた人たちの生活圏を狭めるイデオロギーだと信じられていることにものすごく悲観的になってしまう。

ここで、「悲観的」という言葉について考えてみたい。

なんか、こういう自分の主義主張を書き込むと、今ここでも読んでくれている読者が最後まで読み切らずに勝手に自分のことを「どこどこのどんな考えに属する人」とClassifyして満足し、ページを閉じてしまいそうだから。

できるだけ、できるだけ自分でもごちゃごちゃになっている考えをクリアに、クリアに伝えるために、丁寧にステップはふんでいきたい派だ。

悲観的、文字通り、私は物事を「悲」しく「観」ているのである。

「観」ているその先には、当たり前だが、「観」られる「的(まと)」が存在する。

こう書くと、啓蒙アクティビストのようにみられがちだが、そうではないことをここに記そう。ただ、なぜそうではないのか、という理由に関してはなかなか言語化ができずにもどかしい。

苦し紛れに書いた一段落分の思いをお届けします↓

それは、決してとなりのあの子がフェミニズムや人権問題に興味がないから、この日本国に失望する、とか、ジェンダー問題は全生活圏内で連続的に撃ち込まれるジャブのように人々を苦しめていて、そのことで人が死んだりしている。人が死ぬことに対して何も問題意識を感じていない能天気なお友達たちに怒りを感じている、とかそういった高尚な感情から、自分はフェミニストだ、と明言しているわけではない。