日本にいると、イギリスにいる百億倍は人生が楽な気がする。
日本人だし、男性だし、日本語を難なく操れるし、
だれも俺の日本語を聞いて「地元の方?」なんて野暮な質問はしない。
俺の話にダイレクトに耳を傾け、俺の話は純粋なコンテンツとして相手の耳に届けられる。
一方でこちらに住んでいると、まず非白人という外見が邪魔をする。
俺の話に耳を傾ける前に、「イギリス出身?」と聞かれるのだ。
もちろん、相手は俺を本当にイギリス出身かどうか聞きたいわけではない。
国籍不明な目の前のアジア人が、どのパートのアジア出身なのかを特定したがっての質問なのだ。
ただ、昨今のポリティカルコレクトネスなどが邪魔をして、’where are you from?’ ではなく、
‘are you local here?’ という聞き方になっているのである。
相手は、’No, I’m not local here.’ という回答にプラスして、
‘I’m from Japan.’ という一文を喉から手が出るほど欲しがっているのだ。
いやいや、服選びとか、ご飯選びの会話で出身地を特定する必要はないだろ、と突っ込みたくもなるが、
もう4年間の生活で慣れた。 こ
ういう話をすると目くじらを立てて怒ってくれる白人の知人もいるが、俺はそれを求めていない。
俺よりもヒートアップして、
「私だったら/俺だったらそいつの顔面ぶん殴るわ」だの、
「一緒に外出してたらあなたの代わりに怒れたのに」だの言われるが、
俺はそれを求めていない。
ただ単に、こういう話をするときは俺のリズムで、俺のテンポで会話を展開したいだけなのだ。
そのためにはただ黙って聞いてくれる人が居てくれたらいいのに、と思う。
アジア人同士で話す時と、おれがこれを白人に話すときもある程度表象に誤差がある。
大抵の場合、白人には「ここまで言っても分からないだろう」という俺の考えが先行し、アジア人に開示するほどの情報を開示しない。
ただ、たまにはこいつらには本当の友達であってほしいから、そういう話を本当の意味でできる友達を探していたが、4年間でたったの1人だけだった。
そしてその1人にも全てを開示しているかと言ったら、していない。
言ってもわからないだろうという失望や、
言ったらあとで「ヒステリックにこういうトピックばっかりを話したがるやつ」として認定されて笑いものになってるんじゃないか、
という想像をしてしまうことから、その子にも本当の意味で自分を開示していない。
端的に言えば、こちらの世界で生きていくには、
終わりの見えない腹の探り合いを恒常的に行なっていくことが求められる。
(というか、自分に求めているのか。 )
だから、私は日本に帰ることに決めた。
日本に居れば、このようなストレス源から解放されるからだ。
修士も、就職も、子育てや家族も、将来こちらをベースに行なっていくであろう。
それかもし、また西側諸国で過ごさなくてはいけなくなってしまう場合は、自分の身の回りにできる限りの日本を持ち込むだろう。
ダラムという辺境の地には行かず、ロンドンやエディンバラなど日本人が多い地域で暮らすだろう。
日本人でなくても良い。
政治的に西洋諸国に懐疑的な視線を常に持っている人たちを身の回りに置いておくであろう。
ただ、このような環境に実際1年間身をおいてみて、感じたことがある。
それは、精神の安寧と引き換えに、自分の成長意欲やハングリー精神が減少しているかもしれないという事実だ。
常日頃から馬鹿にされている空気感の中で緊張感を持って、疲弊しながらも生きることができるある意味での「野生」的な環境、イギリス。
みんなが友達で、とても大切にされ、心のつながりも愛されているという感情も抱くことのできる、ある意味での「人工的動物園」のような環境、東京。
何くそ、負けてらんねぇ、、という負けず嫌いギャル魂だけを支えに4年間のイギリス生活を乗り越えた者として、「ギャル魂」を失ったら何事に関しても負けだと思っている。
イギリスに来てすぐに、自分の中のギャル魂が輝きを増していることに気がついた。
だが、チャンスがなかなか回って来ず、もどかしい思いもするけれど。
日本にいると、やはりマジョリティの日本人としてみられることで、チャンスも巡ってくるし、温室なので、心が満たされ、「ギャル魂」は輝きを失ってしまう気がしている。
日本に帰っても、この事実をしっかりと忘れずに、チャンスを、自分の生の可能性を、ハングリーに広げていきたいとこのイギリス滞在で、再認識した。
ー2022/07/08 リッチモンドのCafe Neroにて